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歌川国芳

 無類の猫好きとして有名だった江戸時代の浮世絵師・歌川国芳(うたがわくによし, 1879-1861)の生涯についてご紹介します。なお江戸の元号はめまぐるしく変わるため、混乱した場合は下の「江戸の元号と西暦の対応表を」をご参照ください。 江戸の元号と西暦の対応表

歌川国芳・略歴

 歌川国芳(うたがわくによし)とは、江戸時代末期を代表する浮世絵師で、寛政9年11月15日(1798年1月1日)に誕生し、文久元年3月5日(1861年4月14日)に没しています。

浮世絵との出会い

 12歳のときに描いた絵を時の人・歌川豊国(うたがわとよくに, 1769年 - 1825年)に認められてその門に入ったと伝えられていますが、「国芳は豊国の弟子ではなかった」という子孫の言い伝えも並存しているため、当時最高の人気絵師だった豊国の門人と名乗った方が、社会的に有利だったのではないかとも推察されます。

不遇の時代から一躍時の人へ

 1827年、版元加賀屋から通俗水滸伝豪傑百八人之一個シリーズが出されるまで、国芳は不遇の時代を送ります。要するに「売れない浮世絵師」という状態です。しかし1803年の「新編水滸画伝」(曲亭馬琴訳・葛飾北斎画)や1825年の「傾城水滸伝」(曲亭馬琴作・歌川国安画)などの後押しもあり、先述した「通俗水滸伝」シリーズが大当たりし、一躍世間の注目を集めます。 通俗水滸伝豪傑百八人之一個シリーズ

大打撃!・・天保の改革

 その後1842年、老中水野忠邦が行った「天保の改革」の一環として役者、遊女、芸者などの絵を出版することが禁じられ、錦絵の版元、および浮世絵師は「おまんまの食い上げ」という大打撃を受けます。それに対して国芳が皮肉をこめて作成した判じ絵、源頼光公館土蜘作妖怪図は「よくぞやってくれた!」と世間の注目を集めました。またこの時代は、豪華な錦絵の出版が禁じられたことの副産物として、戯画(ぎが)、英雄画(実録や講釈などに登場する人物を描いたもの)、見世物絵(見世物興行を描いたもの)などが隆盛を見せます。 源頼光公館土蜘作妖怪図

役者絵の解禁

 1847年以降、役者絵でも役者の名前を記さなければ出版してよいという具合に風俗取り締まりはある程度の緩みを見せます。これを機に国芳は再び持ち前の画力を発揮し、様々な戯画や流行神をモチーフとした錦絵、実録の中の義士を題材としたシリーズなど、精力的に創作活動を行いました。

晩年

 晩年は中風(ちゅうふう=脳血管障害の後遺症で、半身不随、片まひ、言語障害、手足のしびれやまひなど)を患った影響で細密な筆致が影を潜め、弟子に補助されながらの作品制作だったようです。文久元年(1861)3月5日、現在の東京都中央区日本橋人形町に当たる「玄冶店」(げんやだな)の自宅にて、65歳でその生涯を閉じました。なお、国芳の墓は現在、東京都小平市の日蓮宗大仙寺にあります。
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歌川国芳の人物像

 歌川国芳の私生活における性格や人物像を知る手がかりは、そう多くありません。しかし断片的な情報をつなぎ合わせると、おおよそ以下のようになります。

国芳の性格

 日経カルチャー美術部・「没後150年 歌川国芳展」図録・P12-13を参照する限り、どうやら彼は「べらんめぇな典型的江戸っ子」、「職人気質」、「情に篤い」というキャラクターであり、また、商売敵であり売れっ子浮世絵師だった歌川豊国とは犬猿の仲だったようです。人から先生と呼ばれることを嫌い、「先生ていうのはね、そらあそこの縁にいる被布を着た人(豊国)さ」と嫌みったらしく語ったというエピソードも残っています。

国芳の自画像

 国芳のトレードマークとしては地獄変相図のどてら、そして「猫」が有名ですが、彼のどてら姿を描いた浮世絵作品はいくつか残っています。しかし外出するときは、半てんを着たとび職人のような格好をしていたそうです。また国芳の登場する浮世絵は、そのほとんどが後ろ向きであるため、彼がどのような面立ち(おもだち)だったのかを知るのは、今となっては困難です。 国芳のトレードマーク・どてら姿

国芳塾の様子

 国芳最後の弟子・河鍋暁斎(かわなべきょうさい)の自伝画集「暁斎画談」(きょうさいがだん)の外篇巻之上P6に暁斎幼時周三郎国芳へ入塾ノ図(←国立国会図書館デジタル化資料より・別ウィンドウ)というものがあります。これは暁斎が7歳の頃、国芳に自分の書いた絵の手直しをしてもらっている場面が絵とともに語られていますが、国芳を師匠とする弟子たちからなる「国芳塾」における光景を知る上での貴重な資料となっています。 河鍋暁斎(かわなべきょうさい)の自伝画集「暁斎画談」

歌川国芳と猫

 国芳と切っても切れないのが猫です。彼は無類の猫好きとして知られ、常に数匹~十数匹の猫を飼い、懐に猫を抱いて作画していたと伝えられています。

猫好き国芳

 彼の姿を描いた浮世絵は幾つかありますが、トレードマークである「地獄変相図のどてら」のほかに、もう一つ必ずといっていいほど目に付くものがあります。それが「猫」です。彼の猫好きは本格的で、内弟子の芳宗によると、亡くなった猫はすぐに回向院(えこういん, 現・墨田区両国)に葬られ、家には猫の仏壇があり、死んだ猫の戒名が書かれた位牌が飾られ、猫の過去帳まであったとか。 国芳の横にたたずむ猫たち

猫の浮世絵は一過性のブーム?

 国芳は猫をテーマとして取り入れた浮世絵作品を数多く手がけていますが、何の計画性もなく漫然(まんぜん)と作成していたのではなく、天保12~13年に大きなピークがあることが指摘されています(太田記念美術館・「浮世絵猫百景~国芳一門ネコづくし~」図録・資料編より)。 このピーク期に作成された猫がらみの作品をざっと列挙すると以下のようになります。
浮世絵界の猫ブームと作品群
天保12~13年にあったと考えられる浮世絵界の猫ブーム
  • 流行猫の曲鞠
  • 流行猫の曲手まり
  • 猫のおどり
  • 猫のうちわ絵シリーズ(すずみ・けいこ・けん)
  • 朧月猫の草紙
  • 猫の当て字
  • 絵鏡台合かゞ身
  • 流行猫のおも入
  • くつろぐ夏の猫美人たち
  • 猫の源氏 賢木
 こうした猫ブームの背景を明らかにすることは容易ではありませんが、一つには、天保12年8月に行われた市川九蔵による猫の所作事(猫の面をかぶって踊る)の影響が少なからずあると思われます。
 理由はどうあれ、猫ブームとでもいうべきピークはそれほど長くは続かず、すぐにかげりを見せ始めました。現代に置き換えてイメージすると、急にテレビ出演の増える若手芸人のようなものかもしれません。一時は、「見ない日はない」という状態だったのが、徐々に出番が減り、一年くらいするといつの間にかどこかに消えてしまう、というあれです。しかし、この時期に猫ブームがあろうとなかろうと、生粋の猫好きである国芳のかたわらには、常に毛づくろいする猫の姿があったことでしょう。

春画用の特別な「猫」画号

 武者絵や美人画、役者絵などで有名な国芳ですが、実は幾つかの春画(しゅんが=アダルトコンテンツ)も手がけています。絵の中におおっぴらに「国芳」と銘打ってしまうと何かと不都合があるため、彼は春画用の特別な画号として「白猫斎よし古野」、「五猫亭程よし」というものを使用していました。「猫」と「よし」というキーワードを入れることで、「大声ではいえないけど、実は国芳だよ」と匂わせていたのでしょう。

歌川国芳とスカイツリー?

 歌川国芳の浮世絵の中にスカイツリーらしきものがある、という噂が一時期流れ、一部の新聞にも掲載されました。東都三ツ股の図 これは1831年頃に描かれたと思われる東都三ツ股の図(とうとみつまたのず)という作品のことですが、確かに絵の遠景には何やら塔のようなものが見えます。回向院(えこういん=現在東京都墨田区両国にあり、1781年以降には、境内で相撲が興行された神社)で勧進相撲(かんじんずもう=観客から料金を取る営利目的の相撲)が開かれる際に立てられる「相撲やぐら」であるという説、あるいは「井戸掘りのやぐら」であるという説があるものの、今なお詳細は不明だそうです。

国芳の門弟たち

  国芳の弟子の一人である芳兼の子息で、東京美術学校の教授だった竹内久一氏の言に「師弟の情誼(じょうぎ=心のこもった付き合い)というものに至極篤かった。師匠も弟子を愛せば弟子も師匠を慕った」とあるように、国芳の元には彼を慕う多くの門弟たちが集(つど)っていました。以下では彼の弟子の内、比較的有名な門弟をデジタル作品集へのリンク付きでご紹介していきます。

歌川芳艶

 歌川芳艶(うたがわ よしつや)は文政5年閏1月1日(1822年2月22日)生まれで、国芳の武者絵の才能を最もよく受け継いだ門弟です。
 15歳で国芳に入門。17歳の時に描いた髪結床(かみゆいどこ)ののれん画を見た国芳が、その艶っぽさに感銘を受けて「芳艶」という名を与えたといわれています。30歳を過ぎたころから賭博と色街にのめりこみ、同門仲間から不評を買ったため、一時期国芳から破門を言い渡されます。その後二、三年は浮世絵制作からも遠ざかってしいますが、同門で博打仲間だった歌川芳鶴(うたがわよしつる)の牢死がきっかけになったのか、安政3年(1856年)頃から再び画業に復帰、以後、亡くなるまで創作活動を続けました。
 慶応2年6月22日(1866年8月2日)、45歳の若さで没しています。
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歌川芳藤

 歌川芳藤(うたがわよしふじ)は、文政11年(1828)生まれで江戸時代から明治時代にかけて活躍した門弟です。
 寄せ絵やはめ絵などの戯画を得意としていたことから「おもちゃ絵の芳藤」の異名を持ちます。しかしこうしたおもちゃ絵は幕末から明治初期にかけて数多く制作されたものの、子供の遊び道具として消費されるという性質上、現存しているものは少なく、あったとしても保存状態が悪いものが大半です。
 明治20年(1887)、60歳で没しています。
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歌川芳虎

 歌川芳虎(うたがわよしとら)は1828年生まれで、江戸時代末期から明治時代中期にかけて活躍した門弟です。
 国芳最後の弟子・河鍋暁斎(かわなべきょうさい)の自伝画集「暁斎画談」(きょうさいがだん)の外篇巻之上P6に暁斎幼時周三郎国芳へ入塾ノ図(←国立国会図書館デジタル化資料より・別ウィンドウ)があり、同門の芳員(よしかず)と取っ組み合いのけんかをする芳虎の姿が描かれています。武者絵のほか美人画シリーズや相撲絵、横浜絵などを手がけ、明治元年(1868年)の絵師番付では、歌川貞秀に次いで第2位という好位置につけています。
 しかしある時期を境に国芳と不和となって破門されてしまったため、国芳一門の名を記した三囲神社(みめぐりじんじゃ, 現:東京都墨田区向島)の石碑中にも芳虎の名はありません。
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歌川芳員

 歌川芳員(うたがわよしかず)は、江戸時代末期から明治時代初期にかけて活躍した門弟です。生没年は不明。
 作画期は嘉永(1848年~1854年)頃から明治3年(1870年)頃までで、主に合戦絵、武者絵、花鳥画、草双紙の挿絵などを得意としました。また、鎖国を解いて開港した横浜を題材にして、明治初期に描かれた浮世絵、いわゆる「横浜絵」を多く手がけたことでも有名です。
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落合芳幾

 落合芳幾(おちあいよしいく)は天保4年(1833)生まれで、幕末から明治にかけて活躍した門弟です。
 17、8歳ごろ、近所の歌川芳兼に誘われて歌川国芳に入門したと伝えられており、月岡芳年(つきおかよしとし)とは兄弟弟子の関係にあります。一時は浮世絵師として芳年と人気を二分する程でしたが、明治5年(1872年)「東京日日新聞」(とうきょうにちにちしんぶん)の発起人となり、同7年(1874年)には錦絵版『東京日日新聞』に新聞錦絵を書き始めて錦絵新聞流行の先駆けとなりました。
 明治37年(1904年)2月6日、72歳で没しています。
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月岡芳年

 月岡芳年(つきおかよしとし)は天保10年(1839)生まれで、幕末から明治前期にかけて活動した門弟です。
 12歳で歌川国芳に入門したとされ、歴史絵、美人画、役者絵、風俗画、古典画、合戦絵など多種多様な浮世絵を手がける一方、芝居の中の殺しの現場などをテーマとした「無残絵」(むざんえ)を得意とし、「血まみれ芳年」という異名を持っていました。また、彼の門下からは日本画家や洋画家を多数輩出しており、「最後の浮世絵師」と評されることもあります。
 顔写真が残っている数少ない浮世絵師の一人で、1892年(明治25年)、54歳で没しています。
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河鍋暁斎

 河鍋暁斎(かわなべきょうさい)は、天保2年(1831)生まれで、幕末から明治にかけて活躍した門弟です。
 天保8年、6歳のときに国芳に入門し、後に多くの戯画や風刺画を残しています。国芳最後の弟子とも呼ばれ、彼の自伝画集とも呼ぶべき「暁斎画談」(きょうさいがだん)の外篇巻之上暁斎幼時周三郎国芳へ入塾ノ図(←国立国会図書館デジタル化資料より・別ウィンドウ)では、国芳の元で学ぶ彼や兄弟弟子の日常の様子をうかがい知ることができます。
 日本絵画史上最大の画派である「狩野派」(かのうは)の流れを汲みつつも、他の流派や画法を積極的に吸収し、海外からも高く評価されています。
 現在は彼のひ孫が公益財団法人・河鍋暁斎記念美術館を設立しており、暁斎の残した下絵・画稿類を中心に3000点余りを所蔵しています。
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その他の浮世絵師

 江戸時代から明治期にかけて活躍した浮世絵師のうち、国芳一門ではない絵師たちを中心にご紹介します。紹介文の下にあるのは、オンラインで閲覧できるデジタル作品集へのリンクです。

歌川広重

 歌川広重(うたがわひろしげ)は安藤広重(あんどうひろしげ)とも呼ばれ、ゴッホやモネなどの画家にも影響を与えた世界的な浮世絵師です。生まれは寛政9年(1797年)。
 当初は初代・歌川豊国(うたがわとよくに)の門に入ろうとしたものの、門生満員で叶わず、歌川豊広(うたがわとよひろ, 1776年~1828年)に入門、翌文化9年(1812年)に師と自分から一文字づつとって歌川廣重の名を与えられました。
 大胆な構図などとともに、藍色を始めとする青色の美しさで評価が高く、時に「ヒロシゲブルー」とも称され、19世紀後半のフランスに発した印象派の画家たちや、アール・ヌーヴォーの芸術家たちに大きな影響を与えたとも言われています。
 安政5年(1858年)、当時流行していたコレラにかかり、65歳で没しています。
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歌川豊国

 歌川豊国(うたがわとよくに)は明和6年(1769)生まれで、役者絵や美人画で絶大な人気を博した江戸後期の浮世絵師です。
 幼少期に歌川派の創始者である歌川豊春(うたがわとよはる)の元で学んだとされ、また生涯にわたり多くの門弟を育てたことでも知られています。主な門人を挙げると歌川国安、歌川国丸、歌川国直、歌川国芳などです。ただし国芳に関しては、後に子孫が「豊国の門弟ではなかった」と証言していること、および二人の反りが合わなかったことなどから考え、国芳自身が豊国の元で学んだという過去を消し去ろうとしている節があります。
 豊国の名はその後世襲制となり、二代目豊国(1802年~1835年)は豊国門下の歌川豊重が襲名し(通称「源蔵豊国」)、三代目豊国は同じく豊国門下の初代歌川国貞が、弘化元年(1844年)に襲名しています。
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歌川国貞

 歌川国貞(うたがわくにさだ)は天明6年(1786)に生まれ、のちに三代目・歌川豊国を襲名した浮世絵師です。
 15、6歳の時に初代・豊国の門下となり、22歳頃から美人画を描き始め、面長猪首型の美人画で有名になりました。弘化元年(1844年)、二代目豊国を襲名すると、工房を安定させて大量の作品を出版し、1万点以上に及ぶとも言われる作品数は浮世絵師の中で最多です。
 元治元年(1865年)に79歳で没しています。
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歌川貞虎

 歌川貞虎(うたがわさだとら)は初代歌川国貞の門弟で、江戸時代後期に活躍した浮世絵師です。生没年は不明。
 文政~天保の頃、主として草双紙(くさぞうし=江戸時代中頃から江戸で出版された絵入り娯楽本)の挿絵や花鳥画、美人画、役者絵などを描いて有名となりました。代表作は美人画のシリーズ「東都七福詣」(とうとしちふくもうで)などです。
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歌川国政

 歌川国政(うたがわくにまさ)は安永2年(1773)生まれで、江戸時代後期に活躍した浮世絵師です。
 初めは紺屋の染物職人でしたが、役者似顔絵が得意だったため初代・歌川豊国に弟子入りしています。師の豊国と比べると作画範囲が狭く、大半が役者の錦絵で、美人画や挿絵はほとんど残されていません。また、早逝したため残存する作品数が極めて少ない浮世絵師の一人です。一説では、豊国の最初の門下生であり、また師をしのぐ才能を持っていたとも言われています。
  文化7年(1810)、47歳の若さで没しています。
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鈴木春信

 鈴木春信(すずきはるのぶ)は享保10年(1725)に生まれ、江戸時代中期に活躍した浮世絵師です。
 細身で可憐、繊細な表情を描いた美人画を得意とし、また浮世絵版画における「錦絵」(にしきえ=多色摺りの木版画)技法の確立者としても有名です。彼の手による「風流四季歌仙」、「座敷八景」、「風流やつし七小町」、「風俗六玉川」などの美人画シリーズは一世を風靡(ふうび)し、後世にまで大きな影響を与えています。特に、江戸谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた看板娘「お仙」をモデルとした美人画は、春信の知名度を高めるきっかけにもなった代表作です。
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