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古代エジプトと猫

 古代エジプト文明の中で、猫と言う動物は特異な地位を占めていました。それは現代で言う「愛玩動物」(あいがん=慈しみかわいがること)という概念を超え、ほとんど宗教の信仰対象と言ってもよいような強大なものだったようです。

エジプトにおける猫の家畜化

古代エジプトの壁画に見られる猫の絵  キプロスの遺跡を除き、最も古い猫の家畜化の証拠が発見されているのは、古代エジプト文明です。紀元前4000~5000年頃のエジプトでは、ネズミやヘビ(猛毒を持つコブラなど)などの害獣駆除の為に、猫が家畜化され始めたと考えられています。
 当時のエジプトの土着猫には、ジャングルキャット (Felis chaus) とリビアヤマネコ(Felis silvestris lybica)がいましたが、ジャングルキャットの方は野性味が強すぎて、なかなか人間にはなつかなかったようです。 一方リビアヤマネコの方は、当時の人々の忍耐力と、おそらくはリビアヤマネコ内部の気質的な突然変異によって性格が温和化され、家畜化が実現しました。また、当時のエジプト富裕層では、ヒヒ、ライオン、ガゼルなどの野生動物を飼いならすことが、一種のファッションだったようです。その風潮がヤマネコの家畜化を促したという側面もあるでしょう。
 猫はこのような経緯で、エジプト文化の中に入り込んできたものと考えられます。 エジプトにおける家畜化初期の猫は、まだ神聖視はされておらず、人間の狩猟の手伝いをする使役動物として扱われていました  2013年、エジプトにおける猫の家畜化を示す新たな手がかりが発見されました。発見があった場所は、エジプト原始王朝時代(BC4200年~BC3150年頃)の古代都市「ヒエラコンポリス」の「HK6」と呼ばれる区画です。この区画は、古代エジプト・ナカダ文化1期~2期に相当するBC3600~3800年頃のものと考えられています。
 この発掘調査で新たに発見された小さい穴の中には、6匹の「猫らしき動物」の骨が埋められていたといいます。内訳は、1歳以上のオス、1歳くらいのメス、4~5ヶ月齢くらいの子獣4匹です。 古代都市「ヒエラコンポリス」の「HK6」と呼ばれる区画において発掘された、猫らしき動物の骨  発掘チームが成獣のものと思われる骨を計測した結果、これはネコ科動物の一種である「ジャングルキャット」(Felis chaus)や「スナネコ」(Felis margarita)のものではなく、現在のイエネコの祖先種である「ヤマネコ」(Felis silvestris)のものに近いという結論に至りました。また、下顎骨の形態学的比較により、野生種ではなく、家畜化されていた可能性が強いとも。
 この「猫らしき動物」が人間になついていたかどうかまでは、骨を分析しただけでは分かりませんでした。しかし、エジプトで王朝が始まる以前のBC3800年頃にはすでに、ネコ科動物(恐らくはイエネコの祖先種)が人間と密接な関係にあった可能性を示す有力な証拠として注目されています。 More evidence for cat taming at the Predynastic elite cemetery of Hierakonpolis
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エジプトにおけるトーテミズム

 エジプトは常に統合されていたわけではありません。エジプトの地は多くの宗教的部族、及び「ノモス」と呼ばれる州から構成される混沌とした土地でした。多くの州では、それぞれ精霊の化身としての宗教的な崇拝対象をもっており、それは多くの場合動物でした。動物の持つ能力、可愛さ、あるいは動物に対する畏敬の念が、崇拝対象として選ぶ際の決定因だったようです。
 こうした中で戦争が起こり、ある特定の部族が土地を平定すると、勝利を収めた部族は征服した部族に対し、崇拝対象を強要することが出来るようになります。実際、紀元前3100年頃、メネス王の下でエジプト帝国が建設されると、多元的なトーテミズム(崇拝主義)が確立し、猫はもちろんトキ、タカなどの鳥やスカラベ(コガネムシ)などの昆虫なども含めて、崇拝の対象となりました。 紀元前3100年頃のエジプトでは、猫はもちろんトキ、タカなどの鳥やスカラベ(コガネムシ)などの昆虫なども崇拝の対象でした。
 エジプトが建国された紀元前3000年頃から、新王朝時代が終わる紀元前1200年ころまでの、エジプトにおける猫の立場をまとめると、以下のようになります。
エジプトにおける猫の立場
  • 紀元前3000年以前 猫に宗教的な意味はなく、害獣駆除を担当する家畜だった。
  • 紀元前2000~1500年 猫がトーテミズムに組み入れられ、図柄がお守りに描かれたり、太陽神ラーの象徴としてオス猫が描かれ始める。
  • 紀元前1500~1200年 猫ははっきりと神格化され、女神ハトホルの化身の一つとみなされるようになり、「Nebethetepet」という名が与えられる。
 紀元前3000年の終わりまで、古代エジプト人にとってリビアヤマネコは、宗教的にほとんど重要なものではなかったようです。しかし紀元前2000~1500年ごろから、「魔法の短剣」(magic knives)といわれる象牙でできた小刀に猫が描かれ始め、この頃から猫がトーテミズムの対象とした扱われるようになったと考えられます。この短剣は、事故、病気、難産、悪夢、毒蛇、毒さそりなどの災厄から身を守ってくれるお守り的な装飾品でした。 「魔法の短剣」(magic knives)
 時期を同じくして太陽神ラーの象徴としてオス猫が描かれ始めます。この太陽神は未去勢のオス猫の姿をしており、蛇の姿をした魔神アポーフィスと毎晩戦っていると信じられていました。この太陽神ラーが現れた当初は、どちらかといえばサーバルキャットに近い外観で描かれていましたが、後により小柄なリビアヤマネコの姿に入れ替わっていきます。これはおそらく、エジプト人の家庭内にペットとしてリビアヤマネコが入り込んできたことと関連しているのでしょう。
史上初めて登場した猫の名前「Nedjem」 新王朝時代(紀元前1540~1196)になると、猫は女神ハトホルの化身の一つとみなされるようになり、「Nebethetepet」という名を与えられて神格化されるようになりました。また同時に、王族の間ではペットとしても寵愛されていたようです。例えば、第18王朝6代目のファラオ・トトメス3世(BC1479~1425)の時代に活躍した建築家「Puimre」は、「Nedjem」(意味:かわい子ちゃん or 星)という名の猫を飼っており、これは「人類史上で最初に登場する猫の名前」としてギネスブックにも載っています。また第9代ファラオ・アメンホテプ3世(BC1390~1352)の長男・トトメス王子が飼っていた猫は「Ta-Mit」(意味:メス猫)と呼ばれ、こちらは石棺の彫刻としても残されています。 トトメス王子が飼っていた猫「Ta-Mit」のレリーフ  ちなみに1903年、フランシス・シンプソンが著した「The Book of the Cat」の中では、第11王朝時代頃の「Buhaki」(or Bouhaki)という猫が記述されており、長らくこれが最初に登場する猫の名と考えられていました。しかしその後、第20王朝・ラムセス4世時代(BC1129~1111)に書かれたアボットパピルス内の記述により、これは猫の名前ではなく、どうやら犬の名前であるらしいことがわかったため、現在は上記した第18王朝時代の「Nedjem」が繰り上げ当選しています。
薬としての猫
 古代エジプトにおける猫は、信仰の対象であると同時に、薬としての側面ももっていました。
 第18王朝時代(BC1570~BC1293頃)の医学パピルスには、腹痛への対処法として「猫の糞、ロータス入りのパン、スイカ、甘いビール、ぶどう酒を混合して軟膏作り、患部に当てよ」と記されています。さらに「猫の脂肪のみで作った軟膏は神経痛に効く」、「猫の糞、犬の糞、クセトの木の実を混ぜて作った軟膏は、いかなる程度のフケ症も直す」との記述もあります。
 こうした薬に用いられた猫はもちろん、人為的に殺されたわけではなく、事故死したものだと考えられます。 古代エジプト動物学(文芸春秋)
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エジプト猫崇拝の全盛期と衰退

 エジプトにおける猫が全盛期を迎えるのは、「バステト神」と結びついて崇められるようになる第22王朝時代です。この王朝は、リビア人傭兵の子孫であるシェションク1世が創設したものであり、存続したのは紀元前945~715年とされています。また「バステト神」とは、ファラオの守護者、家の守護者といった役割を持つ、エジプト古来の神です。
 紀元前2800年頃の初期バステト神像は、メスのライオンをかたどった女性像として描かれていますが、時を経ると共に徐々にそのイメージは柔和化していき、最終的には猫へとイメージチェンジを果たします。このようなイメージチェンジがいつ起こったのかは定かではありません。しかし第22王朝時代における猫人気から考えると、王朝が始まる少し前の紀元前1000年頃にはすでに完了していたのではないかと推測されます。 女神バステト(バスト)は、長い年月をかけてライオンから猫へとイメージチェンジを果たした  第22王朝時代のエジプト人にとって、バステト神の化身である猫がいかに大きな存在であったかは、中心都市とてして栄えた「ペルバステト」という都市名からもうかがえます。この都市は後にギリシア語に転換されて「ブバスティス」と呼ばれるようになりますが、元々は古代エジプト語で「バステトの館」を意味する言葉です。つまり「猫の館」と言い換えてもよいでしょう。さらに7代目の王に至っては、自身のことを「ペマウ」、すなわち「猫の王」と呼ぶようにまでなっています。
 猫を神として崇めていた第22王朝の中心都市が、上記ブバスティスです。この都市は、豊作、母性、庇護の象徴であるバステト神の信仰者で溢れ返り、ナイル川が氾濫する毎年6月には、盛大な祭りが開催されたといいます。この祭りに関してギリシアの歴史家ヘロドトスは、「祭りで消費するブドウ酒の量は、一年の残りの期間に使う全消費量を上回る。さらに、この祭りに集まる人数は、子供を除いても70万人に達する」と記しています。当時のエジプトにおける総人口が400万程度と推定されているため、カウントされていない子供まで含めると、エジプト中のおよそ1/4の人々が、この都市に集まっていたことになります。
 祭りのみならず、ブバスティス中央付近にあったとされる「猫神殿」も特筆に値します。王朝の創設者シェションク1世の後を継いだオソルコン1世は、元々あった猫神殿を著しく拡張して信仰を広め、また次のオソルコン2世の時代にはブロンズ芸術が隆盛し、数多くの猫像が建立されました。神殿の隣には猫を世話する猫舎のようなものがあり、世襲制の世話係が厳しい規則の中で猫たちを管理していたようです。この神殿を訪れたギリシアの歴史家ヘロドトスは以下のように記しています。
「歴史の父」と称される古代ギリシア歴史家・ヘロドトス  エジプト中探しても、この寺院ほど見た目がきらびやかで美しい寺院はどこにも無いだろう。
 ナイルの氾濫を避けるため窪地に建設されたこの寺院には運河が通っており、さながら人工の島のような様相を呈している。そして、寺院内部へと人々を導く中庭には木々が植えられ、寺院の中には女神バステトの巨大な像が鎮座している。そして、おびただしい数の聖なる猫、猫、猫・・・。これらの猫の飼育は、巡礼者たちからの寄付でまかなわれているという。
ブバスティスでは、猫をかたどった銅像や護符がおみやげとして売られていた  ブバスティスはまた、あらゆる種類の商品のマーケットとしても発展しました。女神バステト(バスト)の崇拝者たちに対し、職人たちは猫をかたどった何千もの銅像や護符を作りました。これらの護符はしばしば出産を控える女性が愛用しましたが、これは「護符に描かれている子猫の数と同じくらいたくさんの子供を授かりますように」という願いからだったようです。
 紀元前525年、エジプトはペルシア人によって征服されていない唯一の帝国でした。エジプト征服をもくろんだペルシアのカンビセスは、砂漠を横断してはるばるエジプトの前哨地ペレシウムにたどりつきます。彼の秘策は、盾に猫を貼り付けることでした。この盾をみた見たエジプト兵たちは、なすすべもなく武器を下ろしたといいます。
 バステト崇拝は紀元390年、帝国による禁令により、その長い歴史に幕を下ろしました。
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死んだ猫の埋葬

 古代エジプトにおける猫の死体処理は、「ミイラ化」が主流でした。当初はすべて自然死した猫が対象でしたが、時代を経るに従い、意図的に猫を殺してミイラ化するという慣習が出来上がっていったようです。

猫の埋葬・ブバスティス

 猫が全盛期を迎える第22王朝時代(紀元前945~715年)、死んだ猫たちは専用の墓に葬られていました。そのときの様式は「ミイラ化」が主流だったと考えられていますが、第22王朝時代の中心都市だったブバスティスでは、猫の墓地は発見されたものの、ミイラ化した猫は見つかっていません。
エジプトのブバスティス遺跡で発見された猫の共同墓地  この事実に対し、スイスのエジプト学者エドワード・ナヴィルは「火葬説」を提唱しました。これは、当時の人々は猫をミイラ化していたのではなく、火葬処理していたとするものであり、墓地の付近から炉や黒焦げのレンガが見つかったという事実を根拠にしています。
 しかし現在、多くのエジプト学者は、ナヴィルが唱えた「火葬説」の代わりに「墓泥棒説」を支持しています。「墓泥棒説」とは、金品目当てで泥棒に入った盗人が、何らかのアクシデントで墓に火をつけてしまったか、あるいは犯罪の痕跡を消すために、意図的に放火したとする説です。また、金品ではなくミイラそのものが目当てで泥棒に入った盗人が、墓の中でミイラを焼いて粉末にし、薬を作ったという考え方もこれに含まれます。
 いずれにしても今日においてナヴィルの「火葬説」は否定されており、ブバスティスで死んだ猫は、全てミイラ化処理を施されていたとする考え方が主流になっています。

猫の埋葬・ベニハッサン

 猫がミイラ化されていたことを示す証拠としては、ナイル川東岸に位置するベニハッサンという都市が有名です。この都市は、泥棒にとって非常にアクセスが悪い場所に位置していたため、盗掘被害を逃れていました。その点で、多数の墓泥棒によって長期に渡って荒らさ続けてきたブバスティスとは違います。
 1828年11月、フランスの学者J・F・シャンポリオンは、遺跡調査のためにベニハッサンを訪れました。彼はここで、猫のために作られた岩窟神殿と共に、山のように積まれた猫の死骸を発見します。さらに付近の砂漠に、猫のミイラ安置所を2ヶ所発見しました。ミイラは砂の中約60センチメートルのところに埋まっていたといいます。しかしこの発見はあまり重要視されず、歴史の中にうずもれてしまいました。次にこの場所が話題に上るのは、それから数十年後のことです。
 1800年代中頃のある日、農夫が19トンにも及ぶ猫、犬、マングースなどの遺骨を発掘しました。その多くはミイラ化処理が施されていたといいます。しかし発見された遺骨の大部分は、肥料を作るために売り払われ、粉みじんに砕かれたとのこと。これらのミイラは、後にドイツの学者R・レプシウスによってエジプト中王国(紀元前2040頃~紀元前1782頃)のものであることが確認されました。
 この事実により、ブバスティスで猫が全盛期を迎える第22王朝時代(紀元前945~715年)より1000年以上前の時点で、すでに猫の遺体がミイラ化処理されていたことがわかります。 古代エジプト動物学(文芸春秋) ルーブル美術館に展示されている猫のミイラ

捧げものとしてのミイラ

 2007年、ヨーク大学のスティーブン・バックリィ教授が、100個以上の動物ミイラを調査したところ、古代のエジプト人は動物によって違う防腐処理を施していたことが明らかになりました。例えば、「猫には80%の油、10%のピスタキア樹脂、10%のコニファー樹脂、そしてひとつまみのシナモン」といった具合です。防腐処理を施された猫の死体はその後、リネン製の包帯を幾何学的に巻き付けられ、丹念な職人技で仕上げられるのが通例でした。こうしたミイラは全て、自然死したものが対象となっていたと考えられています。 ScienceDaily 防腐処理の後、リネンを巻き付けられた猫のミイラ
 しかし時代が下るにつれ、どうやら生後間もない子猫を意図的に殺してミイラ化するという行為が行われるようになったようです。この説の根拠となったのは、大英博物館が行ったレントゲン撮影。ミイラの内部を撮ったところ、人為的に首の骨を折られた形跡が見つかったといいます。特に紀元前3世紀ごろから顕著になるこの種のミイラは、おそらくブバスティスを訪れた巡礼者用の捧げものとして売られていたのだろうと推測されています。大英博物館に展示されている猫のミイラ 巡礼者はミイラを買い取り、それを寺院に奉納することで、神に対する崇敬の念を表すのがしきたりだったようです。巡礼者の増加にミイラの数が追い付かず、生まれて間もない子猫を殺すようになったのかもしれません。ちなみに、時代が下るとともにだんだんと作りが粗雑になり、ほとんど「まがい物」に近いものまで出回るようになったとか。現代に置き換えると、「偽ブランド品」と言ったところでしょう。 British Museum
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